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早いもので、令和7年も師走中盤を迎えました。例年になく12月に入っても暖かいなと思っていたら、急に前日より5度以上も最低気温が下がる日があるなど、気温の変化がめまぐるしく、朝夕は冬本番を思わせる雰囲気となってきました。インフルエンザの罹患者も、全国的に流行り出すのが今年は早い!と聞いていましたが、本校でも冬休み前にしては、例年より罹患者が多く出ています。本校は2学期制ですので、今は2学期末というのではないのですが、他校と同じように定期テスト(本校は、中間テストになります)があり、三者面談も始まります。特に3年生は、県内の中学受検のある学校では唯一、進路決定に向けて大事な時期に入っています。徳島県内の中学受検がある学校で、全員が高校受検をする(できる!)中学校は本校だけです。
1か月程前までは、中庭の桜の葉も毎年のルーティンとはいえ、来る日も来る日も大量の落葉が見られましたが、それを綺麗に集めてくださる本校の事務職員さんには頭が下がる思いです。そして、ようやく残り枚数も数える程(12月14日現在)になってきました。校門通りのメタセコイヤは、まだまだ美しい茶色に色づいています。これも当然ですが、全部落葉するんです。葉が小さくてあちこちに舞い散るので、風の強い日に校門通りに車を停めておくと車の色がブラウン一色に全塗装されたみたいになっていて驚嘆したことがあります。かつて、校門通りのメタセコイヤを眺めて、「これだけのメタセコイアが並んでいるのは、大変貴重なんだよ!」と、大先輩がおっしゃっていたのを思い出します。校門を入って玄関ホールまで、本校の見所の一つです。ただ、このメタセコイヤの落ち葉の掃除は大変で、特に大雨の後とかは、通りを埋め尽くすほどの落ち葉です。それを毎朝掃除してくれているボランティア部の生徒に、「ご苦労様、掃除大変だけど、このメタセコイアの並木、きれいだよね」「はい」「こんなにメタセコイアが並んでいるこの景色に匹敵するのは、あの『冬ソナ』の感動的なシーンくらいだよ」「えっ,フ・ユ・ソ・ナ ですか?」「あっ、ゴメン、ゴメン。帰ってお母さんに聞いてみて」と言ったものの、お母さん、大丈夫ですよね?そんな落ち葉舞い散る光景を見て、もの悲しくもなるこの季節ですが、先日偶然見たテレビニュースの中継で、この時期お花屋さんの店頭を飾る「シクラメン」が映っていました。「シクラメン」と聞いて私が真っ先に思い浮かぶのは、「シクラメンのかほり」ですが、本校の職員の中でも、私がこれを口ずさんでも(校長が職員室や事務室で口ずさむこと自体がおかしい!という声はさておき<笑>)、知っている人はごくわずかとなりました。聞いたことがある、という人もチラホラ(知っていてもスルーされている方も多いとは思いますが<苦笑>)となりました。これがリリースされ、大ヒットしたのは1975年、丁度半世紀前です。私は当時中学生でしたが、本校の教職員の中で知っている人も、何年も何十年も後に聴いたことがある、という方が多いようです。私にしても、メロディや歌詞はよく知っていても、その意味を深く理解するところまでは当時はとてもいたらず、せいぜい「別れの歌だよなぁ」くらいにしか思っていませんでした。社会人になってからも、幾度となくこの歌を耳にすることがあったのですが、ある時じっくりと歌詞を理解しようとしたことがありました。そもそもシクラメンて、ほとんど香り(匂い)がないのに、タイトルは「かほり」(=香り)。1番は「真綿色したシクラメン」で始まりますよね。真綿色って、アイボリーでは無く、純白かな。それを「すがしい」って歌ってる。清しいって、清々しいとはちょっとニュアンスが違うように感じます。匂いのないシクラメンのように美しい清らかな、香水などつけなくても香り立つそよ風のような清らかな人なのかな、と勝手に想像していました。
2番は「うす紅色のシクラメン」で始まります。桃色でも、ピンクでもなく。うす紅色という表現は、頬が染まっている様子=「恋するときの君のようです」。こんな風に表現できることに感動したものでした。私のような年寄りが今、こんなことを話すと気持ち悪がられると思いますが、こんなことに想いを巡らせたのは、20代後半だったと思います。そして最後は「うす紫のシクラメン」。当時、赤紫はあっても、うす紫のシクラメンは無かったようです。(その後品種改良がすすみ、うす紫も作られるようになり、今では100種類以上の品種があるそうです。)この色は、暮れゆく空の色かも知れないし、別離の悲しさからの相手、もしくは自分の顔色かも知れませんね。真っ白な心が恋をして、紅く染まり、そして萎れていくようような様子を、シクラメンの色が表しているのかなぁ、そしてリフレインされるフレーズの「疲れを知らない子供のように 時が二人を追い越して行く 呼び戻すことができるなら 僕は何を惜しむだろう」。子供の頃、遊び回って、あっという間に時間が過ぎた経験は誰にでもありますよね。ホント、この歌詞って深いなぁ。さすが小椋佳!と思ったことを昨日の事のように覚えています。東大を出た銀行員が、楽器も弾けなく楽譜も書けないのに、詩を書いてそれを口ずさみ、テープに録音してそれを音楽家が音符を書いて仕上げた歌が、数々の大ヒットをした小椋佳さんですが、私は、名前の発音が同じ(計)ということで、あのNHKコンサートの前から「シクラメンのかほり」の大ヒットもあって、私はファンでした。(当時の坊主頭の中学生で「小椋佳のファン」なんていうのはかなり珍しかったと思います)創る歌や、歌声は素敵なの、、全く人前に出ることの無かったこの方が、NHKホールで初めてコンサートをした時は、「私はテレビに出る顔ではありません」と笑いを取っていたのを覚えていますが、もの凄い反響でした。当時私は中学2年生で、もちろん私の家にはビデオデッキなんてありませんから、テレビの前にラジカセを置いて録音しました。その時のカセットテープを、昨年実家で偶然発見しました。ちなみに、かおり(香り)じゃなくて、「かほり」という言い方を、当時の中学生の私は、今をも勝る無知(!) でしたから、今は亡き私の父親(高校生の頃から俳句や短歌を創作し続けていた、私とは全く違って文学が趣味の労働者)に聞いたことを覚えています。旧仮名づかいなら「かをり」なんだけど、もっと昔は「かほり」と表記されていたとか。でもその後、小椋佳さんのお連れ合いの名前が「佳穂里(かほり)」さんで、あの歌は、奥様へのラブソングでないか、という噂が流れたらしいのですが、ご本人は全否定していたようです。それで、よせばいいのに私は職員室の若い先生方に、「シクラメンのかほり」作った小椋佳は知ってる?と、聞くと先生方からの反応が薄いので、「大泉計(私の名前)では無いよ」なんて、言ってしまい、その場の空気に、また自己嫌悪になってしまいました。昭和の話ばかりして、「パワハラ」と訴えられないように気をつけます(>_<)。
しつこいようですが、「シクラメンのかほり」https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?q=%e3%81%97%e3%81%8f%e3%82%89%e3%82%81%e3%82%93%e3%81%ae%e3%81%8b%e3%81%bb%e3%82%8a&mid=EB8B51217D4857A50A28EB8B51217D4857A50A28&FORM=VIRE は、題名は知らなくとも、聴いたことはあると思うんですけどねぇ。
今年の大晦日に、今年で76回目となる国営放送の歌合戦に、何と16年ぶりにこの歌で一躍スターとなった「布施 明」さんが出場されるそうで、77歳の歌声をしっかりと聴きたいと思います。そして、これを読んでくださっている奇特な皆さんには、歌詞を味わっていただけたら嬉しいです。そして是非、「小椋佳バージョン」も聴いてみて下さい。https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?q=%e5%b0%8f%e6%a4%8b%e4%bd%b3+%e3%81%97%e3%81%8f%e3%82%89%e3%82%81%e3%82%93%e3%81%ae%e3%81%8b%e3%81%bb%e3%82%8a&&mid=F5CA48116F812299A3AFF5CA48116F812299A3AF&FORM=VAMGZC
こんな昭和の歌の話ばかりしているので、年寄り校長は呆れられるのですよね。実は、先日令和8年度の本校の入試の出願が終わったのですが、受検生の皆さんは、面接で本校のHPのことを何か聞かれるのではないかと、本校のHPをくまなく読んでくれている人が毎年いるようですが、心配しなくてもこんな駄文を読んでもらった人にしかわからないような質問はしません(誰もそんなこと想定していない!)から安心して、受検勉強に邁進してください。
さて、ここからは真面目なお話(これまでもいたって真面目なつもりですが<笑>)です。先日、本校伝統の3年生の総合的な学習の時間における「模擬県議会」が開催されました。これは、「総合的な学習の時間」という取組が今から25年ほど前に、今までなかった新しい時間として、全国の学校で始まったのですが、それを実施するにあたり、どういう取組ができるか試行して欲しいと、文部科学省(当時は文部省)から指定を受けて、3年間「未来総合科」という時間を作って始めたのが最初です。したがって、格好よくいうと、今の「総合的な学習の時間」の土台作りをしたのは、鳴門教育大学附属中学校なんですよ(写真は1997年に発刊された書籍です)。そして、その頃から「脈々(ミャクミャク!)」と受け継がれてきた、本校における総合的な学習の時間の中学校における総決算がこの「模擬県議会」なのです。この模擬県議会は、生徒が各クラスごとに政党名をつけて、与党と野党に分かれ、全員が各委員会に所属します。そして、それぞれの委員会ごとに徳島の課題と、その解決策を議案書にまとめ、体育館に3年生全員が入り、朝から1日かけて議論します。中学生ならではの視点で考える政策には、興味深いものが毎年多数出てきます。予算面を含め、様々な観点からの質問も多数出て、高校での主権者教育のベースが養われるとともに、古里「とくしま」への愛着も深まるものと思います。3年前には、「是非参観させて欲しい」と申し出があり、徳島県の副知事さんにもご覧頂きました。そして、昨年からは、方策を考える際に、「STEAM(Science(科学)、Technology(技術)、Engineering(工学)、Art(芸術)、Mathematics(数学)」の視点を入れることにして、生徒が取材する際にもそれぞれの視点からの取組を重視した聞き方や、調べ方をするようにしたので、より発表内容が充実してきており、今年の各党、各委員会の発表も、私は今まで17回、これを見学してきましたが、今まで以上の充実した議案書、そして質疑や答弁を聞かせてもらいました。
そんなこんなで(!)、令和7年巳年もまもなく終わろうとしています。小学生の頃は、1年があんなに長かったのに、ホントこの前、随分分量の減った年賀状を書いたと思ったのに・・・。ある人から、1年間365日を年齢で割り算したのと、1年間の実感は比例するんだよ、と若い頃に聞かされましたが、この歳になるとホント実感です。ICTの加速度的な普及で年々、世の中の流れもスピード感が増しているから尚更でしょうね。それ故、あまのじゃくな私は、昭和の時代に郷愁を感じるだけで無く、あえて、じっくり取り組むことの素晴らしさを教育の中でも光らせたいと願ってしまいます。そういう面では、やはり読書は手頃であり、効果的だと思います。何でもAIに聞いて教えてもらったり、作ってもらったりすることに慣れてしまうことだけは阻止したいものです。中学生でも3年生なら実感する人も多いと思いますが、夏休み前後で部活動を終了するまで、特に運動部の人は毎日身体を動かし、その結果、スタミナも随分あったと思いますが、部活が終わり、身体を動かす機会が減ると、スタミナや、筋力は夏休み以降、向上していないなぁ、と感じますか?そうではないですよね。毎日のようにしていたトレーニングを止めると、筋力や体力がその頃のまま止まっているのではなく、明らかに衰えていきますよね。そうなんです。何でもAIに教えてもらって(それを全て正解と思い込み)自分で考えることをしなくなると、人間の試行する力、探究する力、ひいては判断力までが、どんどん衰えていってしまうことを忘れないようにしたいものです。携帯電話が普及するまで、親戚をはじめ、よく連絡をとる人の電話番号なんて20人分くらいは誰もが覚えていたものです。(大震災になって、電源が全て落ち、携帯電話の充電もできなくなった時、非常電話から遠くの知り合いの携帯に電話をするとしたら、どうやって番号を探すのでしょうか!)
「本当に大切なものは目に見えない」という言葉は、サン=テグジュペリの私の大好きな「星の王子さま」に出てくる一節です。私が日頃から意識していることでもありますが、AIが益々発展(支配)する時代を迎え、大切にしたいという思いを強くしています。年の瀬を迎え、みなさまにおかれましては,お忙しい日々をお過ごしのことと存じますが、来たるべき2026年に向けて、素敵な年末をお過ごしください。そして、いつもこんな駄文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。良いお年を!