校長室から

♪ あと一粒の涙で ひと言の勇気で 願いがかなう その時が来るって 僕は信じてるから 君もあきらめないで ♪ 2021年3月13日





   *前回のお約束通り(勝手な自己満ですが)3月に入って2回目の配信です。ただ,今回の駄文は本当に長いです。いや,実は3月11日,12日と感動することが多すぎて‥。このようないい訳+老害で,本当に,ダラダラ×10くらいですから(笑)。いつものごとく内容が無いのにやたら長文になってしまったこと(いつも読んでいただいている奇特な皆様はもう慣れている!?)を最初にお詫び申し上げます。卒業式で疲れたんだろうな,と大目にみてくださったらうれしいです(失笑)。


   3月12日(金)本校では第35回(徳島大学の管轄だった創立時からは,通算73回目)の卒業証書授与式を挙行いたしました(写真上段)。今回はその内容が中心ですが,その前に前日の3月11日が東日本大震災から10年目を迎えたことについて触れたいと思います。
   ここ数週間ほど,震災から10年という時間を振り返った報道が連日行われています。あの日,本校は卒業式でした。片付けも終わり,ほっと一息,卒業式や卒業生を振り返りながら職員室で歓談をしていました。運動場からは部活動をしている子供たちの声が聞こえていたと思います。その時突然,職員室後方のドアを勢いよく開けて,本校の職員(今はご退職されています)が「先生,東北が大変なことになっとーでよ(なってますよ)。はよ(早く)テレビつけてみー(電源入れてみて)。」と大きな声で言ってくれたのが脳裏に染みついています。すぐにテレビをつけた瞬間,次々と映し出される映像は,濁流の中を車や家が流されたり,仙台空港では駐機中の旅客機が,まるでおもちゃのように,空港の中を流されている映像でした。「大津波警報」という初めて聞く警報の指示に従い,とにかく生徒をすぐに帰宅させました。     毎年,卒業式は週末なので,その夜はいつも慰労会に出かけていたのですが,何故かこの年だけ,予約場所の関係で翌日の土曜日に計画されていました。夕方,近隣のお年寄り(一人暮らしとのことでした)が,「避難させてもらえますか」と学校へ訪ねてきてくれたので,床が絨毯敷の図書室(2階)に上がってもらい,テレビをセットし湯茶をお持ちしました。その後3人ほどお年寄りが避難して来られました。本校は2年前より,大規模災害時に徳島市の準避難場所としての使用を可能とする締結をし,校内に徳島市の非常物資を保管する倉庫も設置し,様々な物品を保管しています。しかし,当時は本校は国立としての位置づけのためか,徳島市からは何の連絡も情報もありませんでした。夜8時を過ぎた頃,「近くでいる一人暮らしのおばあちゃんが家にいないようなので,心配で探しているのですが‥」という近隣の方が訪ねてきてくれました。現地の大変な状況をテレビで見ながら気持ちが沈んでいた中で,その心遣いと,心配していたおばあちゃんに会えた喜びの表情を見て,心が「ほっ」と温まったことを覚えています。実はこの日,本校よりずっと海岸に近いところに私の実家はあり,夕方,高校生と中学生,小学生の子供だけで家にいたらしいのですが,近くに住む妻の老夫婦が地元の中学校へ避難しようと訪ねてきたので,一緒に以前から置てあった,非常時持ち出し用のリュックサックをそれぞれが持って避難した,との連絡が入っていました。お年寄りばかり5人ほどがいた場所で,子供は目立って恥ずかしかったようでした。それで,今はどんな様子か9時頃に電話したら,「6時過ぎに消防署の人が回ってきて,もう津波の心配はないから帰って大丈夫です,と言ってくれたので帰って来てるよ」とのことでした。市役所には本校に避難して来ている人がいると連絡していたのに‥。この震災をきっかけに,ずいぶん連絡系統も整備が進みました。本校にしても火災を想定した避難訓練が中心で,防災マニュアルも今から思えばアバウトなものしかありませんでした。そしてこの震災のあと,徳島県内の販売店からも一時期,乾電池やカセットコンロが無くなったのは保護者の皆様もご記憶にあると思います。それくらい,現地は物資が不足し,大変な状況になっているということで,本校でも生徒会を中心に募金活動等がすぐに始まりましたが,連日の報道を見て,他に何か子供たちと一緒にできることは無いかと考えていたところ,長年親しくご指導いただいている文部科学省の技術教育の教科調査官(国の教科指導のトップ)から「電気が十分回復していないところが多く,手回し発電機付きのラジオは電池がなくてもラジオが聞けて,携帯の充電もできるので,教材メーカーが寄付したいようなんだけど,教材なので全部組み立てキットなんだよね。でも全国の学校は,もうすぐ春休みで授業も終わっているようだし,大学生もとっくに休みに入って学校にいないんだけど,何かいい方法ないか聞かれたんだよ。それですぐ,君の学校を思いついて,『あそこは部活動として技術部があって,毎日活動してるし,春休みも活動するだろうから大丈夫だと思いますよ』って紹介したら,すぐに100セット送る,って言われたけど大丈夫?」との連絡がありました(最終的にその後追加であと50セット届きました)。「もちろんです。1週間以内になんとかします」と部員に相談もせずに即答しました。それからは,卒業したばかりの卒業生も手伝いに来て,3日で完成し,点検も済ませて,1台1台に生徒のメッセージもつけました。ただ,その後の発送が大変で,震災直後は,懐中電灯やおむつ,食料品,電池類といったものに県や市からの緊急物資輸送トラックへの掲載物は限定されていて,「懐中電灯もついています」といっても県も市も「規格外」と杓子定規に言われ,取り合ってくれませんでした。そんな時に本校の卒業生で,私が教育実習の時に配属学級にいた生徒(もちろん本人は覚えていなかったですが)が館長をしていた当時の青少年センターがトラックを借り上げて救援物資輸送をするという話を聞き,相談したら「中学校時代はいろいろ迷惑かけたんですよぅ」と,昔話に花が咲き,即,OKをもらいました(この時は卒業生のありがたさを実感しました)。その上,県や市のトラックに載せたものはそれが,どこの避難所へ行くのか,現地で指示されるのでわからないということでしたが,ここは館長が昔からNPO組織で一緒に活動をしている方が仲介してくれて,気仙沼の小さめの避難所のいくつかに届けてくれることが決まっていました。しばらくたって,その方から,本校の技術部員が製作した手回しラジオを使っている写真を送ってくれたと,館長から連絡があり,CDいっぱいに焼いて送ってくれました。後にこれが文科省で大きく取り上げられ,中学生の活動例が紹介されるのは初めてという,内閣府発行の翌年の「白書」の中にも紹介されました。今でも学会の教材メーカのブースに当時の写真をパネルにして展示してくれています。その後,現地の学校の生徒や校長先生から,手回しラジオに同封したメッセージカードに書いた学校名から,住所を探してお礼状が何通も届きました。それを玄関ホールに掲示していたのですが,それは私が教頭時代にしたことなので,今から7~8年くらい前なのですが,その時の掲示物は応接室に保管してくれていました。ここからが嘘のようなホンマ(本当)の話ですが,(長い!スミマセン,あきらめてください<笑>)4月,5月の休業期間中に,印刷室や応接室,和室等の大掃除を何年かぶりに教職員でしてくれたのですが,それからしばらくして,ふとしたことから,このお礼状など,震災関係の掲示物が無いことに気づいたのです。まさか,大掃除といってもあれは捨てないよなぁ,と思ったもののいくら探しても見つからず,あきらめていたのです。それが‥。明日は卒業式だからと,応接室もきれいに掃除をしてくれていた職員が,「教頭先生,何もしていないのに,棚の上から航空写真のパネルと一緒に何かが急に落ちてきました」とびっくりした表情で職員室に駆け込んで来ました。卒業式の前日ですから,3.11で東日本大震災から10年目で,本校も朝から校門脇に半旗を掲げていました。すぐに見に行ってくれた教頭先生が「こんなものが棚の上からパネルと一緒に落ちてきたみたいです」と言って持ってきてくれたものは‥。ご想像の通り,あの探しても探しても見つからなかった,気仙沼の小学校や中学校から送られてきた礼状をラミネートしていたものです。「うわぁ,怖い~」と一見思われそうですが,いくら偶然が重なったとはいえ,この日に見つかったことに何かすごい深い縁を感じてしまいます。「校長が自分で棚の上に置いたのに忘れとっただけだろ!」と思われるのが恥ずかしいというわけでなく,自分にとって思いの強い関わりだったので,この偶然を大事にしたいと思っています。ちなみに私は三陸鉄道は開通の年に乗りにいきました。あの頃沿岸にあった,新日鉄釜石の最寄り駅で降りて,会社を見に行ったのもいい思い出です(ラグビーで新日鉄釜石がV7とかしていた頃を保護者の皆様でもご存じの方は少ないのでしょうね)。とにかく技術の教員として子供たちに関わってきた思い出は数限りなくあります。子供の作品が大きな賞をもらって,受賞者を代表してプレゼンをする時に発表している子供より緊張したり,あるときは,全国の受賞者の前で指導者も一緒になって阿波踊りを踊り,会場を驚かせて審査員から喝采をあびたこと(単に指導者が踊りたかっただけ?<笑>),また子供のおかげで自分自身が表彰されたことや,大学の先生が中心の学会に初めて,本校の技術部員が中学生として参加し,金属加工の実演をして驚嘆されたこと,そして1200名を超す大規模校で,当時学校はいわゆる「荒れ」ていたのですが,そういう中で生徒と一緒に「リサイクル用紙入れ」を木材で,全教室に2タイプ70個以上を製作したのですが,同僚の教員からは「そんなモノ,生徒が一蹴りしたら,すぐバラバラになるよ」と忠告を受けたものの,同級生が苦労して作ったものがほとんど壊されることが無かった事実に,管理職が驚いていたこともいい思い出です(スミマセン。私の回顧録を書くつもりではないのですが‥)。そんな中でもひときわ印象深く,この時期が来るとマスコミ報道とともに思い出す「手回しラジオ」は,私の技術科の教員としての子供との関わりの中で,最も印象深い出来事でした。いまでも,その内容に触れてくれたものがWeb上に出ております。
https://www.meti.go.jp/report/whitepaper/mono/2012/pdf/honbun04_02_00.pdf ので,よろしかったらご覧ください(もうこれ以上無理,というのはごもっともですので,また何かの機会に‥)。ここで,表題の曲ですが,私にしては新しい2010年のリリース(震災の前年)のFUNKYMONKEY BABYS  14枚めのアルバム「あとひとつ」です。CDジャケットが今話題(!)の田中将大選手だったことや,本人が自身の登板の時の入場曲にしたことも有名です(私的には,この曲がオルゴールの音色で京王八王子駅のホームで列車が到着する前に流れていることの方が印象深いです<笑>)。今回この曲を選んだのは,このバンドが解散してもう8年も経つそうですが,震災から10年目の3月11日に,一夜限りの再結成を果たし,この曲を歌い,田中将大選手もメッセージを寄せたということが報道されていたからです。♪ そう 簡単じゃないからこそ 夢はこんなに輝くんだよ ♪  名曲ですよねぇ。https://www.youtube.com/watch?v=ir5cF-EvBig

   少しだけ,卒業式のまえに触れようと思ったのに,いつものこととはいえ,申し訳ありません。ほんまに,(→本当に,〔*この注釈もひつこい→しつこい〕モウエェ!<笑>)に思ってるのか,というご批判は当然ですが,今年度ももう終わりということでご容赦を‥(えっ表題の曲紹介が終わったから終わりだろ?ゴメンナサイ<半笑>)。
   昨年の,いきなりの一斉休業の中での卒業式は,何もかもが縮小でしたが,今年はもう少し冷静に対応できればと,もちろん生徒,来場者の安全を第一に考え工夫をしました。しかし,昨今の状況から在校生の入場は,ピアノ演奏をする者と,送辞を読む生徒だけにし,卒業生と保護者(2名まで)のみの入場としました。ただ昨年と大きく異なるのは,在校生は登校し,各教室でモニターTVを通して卒業式を生放送で会場にいるつもりで見てもらうことにしたことです。従って,在校生が送辞を読むときは1年生,2年生は教室で全員が起立しました。この中継は前にもお伝えしましたように,高機能のハイビジョンカメラを使って,デジタル伝送しますので,100mのコードで体育館から引っ張るのですが,画像も音声も全く劣化せず鮮明に見ることができます。10日ほど前に高校の卒業式があり,そこへ列席した本校のある保護者の話によると,その高校は生徒数も多く,保護者は別会場からの参観になっていたようで,そこへZOOMによるインターネットを使ってのオンライン中継をしたようなのですが,話している言葉がよく聞き取れなかったり,画像が乱れることもあったようです。本校もそうですが,経験値を積み上げることで,改善されていくのでしょうね。本校は,このハイビジョン中継は9月の文化祭からずっと続けてやってきたのですが,カメラが1台だったため,どうしても画面を通すと見る視点が限られていました。それが,今回卒業生一同がもう1台カメラを寄贈してくださり,それが2日前に届いたのです(前日の「灯の儀」で試運転しました。「灯の儀」については後述します。許されるなら‥許さん!<笑>)。これで本校では,複数台のカメラが使えることになり,デジタル処理できるスイッチャー(切り替え)機も導入し,2台のカメラを切り替えながら,映像を届けることができるようになりました。その操作は,式典中,私たちが座っている後ろに陣取って行うのですが,幔幕で隠れるので人目にはつきません(写真2段目)。ステージ上と体育館後方2階の卓球場のところにカメラを設置し,2年生の報道委員がカメラの操作をします。それぞれの生徒はインカム(有線式双方向通話システム)を装着しており,幔幕の後ろで切り替え機やミキサーを操作している教員が,小さな声で「もう少し右,少しアップにして,そうそうOK」という風に細かく指示を出して画角を決めます。まさに,スタジオや移動中継車の中のミキシングルームでカメラを切り替えているのと同じ感覚です。もともと本校は保護者席に向けて,4台のモニターテレビを置いて,保護者席から,子供が卒業証書をもらったり,歌っているときの表情が見えるようにしてきました。入学式でも呼名するとき,一人一人の表情をステージから写して参列者に見えるようにしています(写真3段目)。でも当然ながら,昭和の時代から行っていますから,こちらの方はアナログ転送です。今回私が操作していた頃ものとは,ガラリと換えてデジタル処理ができる機器を導入したため,体育館内のモニターへの転送がスムーズにできるか心配をしていたのですが,新しい機器には,しっかりとアナログ出力も装備されていたので体育館の保護者の皆さんにも,お子さんの表情をよく見てもらうことができました。
   卒業式は,恒例の「思い出のアルバム」で3年間を振り返り,会場内は盛り上がりました。しかし,一転,式が始まると国歌の静聴から始まり,厳かな雰囲気で粛々と進んでいきました。卒業生代表の答辞では,生徒が涙ぐむ場面で,私も感極まる瞬間もありました。私は,5年ぶりに本校に帰ってきた時にこの3年生が入学したので,この子ら共に歩んだ3年間であったこともあり,ひとしおの思いがあります。最後の校歌も別れの歌も省略したのですが,3年生が投票して,自分たちが選ぶ「卒業の歌」だけはマスク越しにでも歌いたい,歌わせてやりたいという思いで実施しました。卒業生の代表がピアノを弾き,指揮をステージ上でします(写真3段目)。昨年度,在校生として登校すらできなかった卒業式で,奇しくも先輩が歌ったのと同じ歌が選ばれました。これにも何か子供たちからのメッセージを感じ,マスク越しにでもしっかりと気持ちの伝わってくる歌声に感動しました。
   式終了後は,教室に帰り,担任との最終学活を行いました。その後,今年は在校生も一緒に歓送となるのですが,数日前より,この日は雨の予報がでており,せっかく準備しても「雨ですから,できません」というのは,あまりにも卒業生に申し訳ないと思いました。当初の予定では,雨なら「中止」としていたのですが,段々とその予報に現実味が出てきて,今年は多くの行事が中止,もしくは縮小となったのに,最後までそれではいけない,という思いで,学年主任と教頭先生が知恵を絞り校舎内を一周するというアイデアが具現化しました。私は人手不足の中,西階段を3階まで上がるとき,風雨が強いと,階段がずぶ濡れになるので,ブルーシートを2枚つないで,15メートルほどの覆いを4階から垂らして固定してみました。入試中で人手がなかったどはいえ,4階まで,長尺のシートを引きずって,上から一気に下ろしたときは,さすがに歳を感じました(結局吹き込むような風雨は当日,卒業生がいる間はありませんでした<笑>)。オープン廊下である本校は,在校生が教室の前に並び,2年生の一部は3年生の教室前に先回りして,拍手で見送りました。吹奏楽部の生演奏は,廊下側にも,最後に出て行く正門通り側にも窓を開ければ音が通る家庭科室で演奏することにしました。最後の正門通りは,雨が降ってても傘をさして,保護者と教職員が並ぼうということにしていました。これが素晴らしい成果を上げ(写真下段),毎年並んでいる正門通りでは,在校生の前を卒業生が通っても卒業生までの間が離れていて,あまり声もかけられないのですが,今日はすぐ近くを先輩が歩き,「おめでとうございます,お世話になりました」「ありがとう,がんばってよ」というような声があちらこちらから聞こえ,卒業生も在校生もうれしそうでした。これは,会場に入っていなかったとはいえ,臨場感ある中継をずっと見てきて,あの画面越しの先輩が自分のすぐ前を通ってくれたので,惜しみない拍手をして歓送できたのだと思うのです。たぶん今後,雨の心配もしなくてすみ,在校生が心から卒業生を見送りをしている雰囲気が伝わってくるこのスタイルが今後,本校の歓送の標準形になるだろうと感じさせるほどの出来映えでした。こんな素晴らしい歓送の構想を練った教頭先生は,生徒が「何で最後の最後に,校舎を一周も歩かされなあかんのぅ?」って怒ってないかなぁ,と心配していましたが,まさに杞憂でした。
   最後に(まだぁ?スミマセン)興味関心はないと思いますので,飛ばしていただいてかまいませんが,卒業式の式辞を掲載しますが,その前に(ひつこい→しつこい<笑>)卒業式前日の午後行われた,「灯の儀」での挨拶も掲載いたします。この行事は昭和26年に始まった卒業式前日の「かがりびの集い」という,卒業生が在校生に,伝統を引き継ぐ行事を受け継いだものです。毎年,卒業式前日の夕方に運動場へ全校生徒が集まり,ファイヤーストームをしていたようです。ようです,というのは,この行事は雨や風などの影響を受けやすく19年前に行って以来,数年間,直前になっての中止が相次いだため,(私も中止になった経験しかなく,リアルタイムでは知らないのです)周辺の住宅にも煙害がでないようにとの思いから,天候に左右されずに室内で続けられるものをと,いうことでこの「灯の儀」が始まりました。3年生から2年生へ炎が受け継がれるのは大変厳かです。このときの様子は,本校HPのトップページの「トピックス」をご覧ください。
* このときの私の話した内容は,式辞と違って会場が暗いこともあり,必死で内容を覚えて話したので,書いている内容と微妙に違う箇所があったかも知れませんが,ご容赦ください。


          「 灯の儀 」   学校長あいさつ

   3年生の皆さん,いよいよ御卒業ですね。
皆さんは明日、第35回の卒業生としてこの附属中学校から、巣立ちますが、徳島大学時代から通算すると、明日は73回目の卒業式となり,1月7日の揮毫式の時にこの体育館一杯に飾られた雄名録に書かれていた1万人以上の卒業生の仲間入りをするわけです。
   揮毫式は、昭和26年から71年続く行事ですが、同じように、昭和26年から始まった行事が、この灯の儀の前身となる,かがり火の集いです。
   私は、「附中のうた」が大好きです。その2番には「夜空を焦がす かがり火の 燃ゆるゆかしき 伝統を」(*この部分はアカペラで歌う!)と歌われています。今から19年前まで、卒業式の前日に運動場で、ファイヤーストームのように、かがり火の集いを行ってきました。しかし、雨や風など天候に左右されることも多く、また近隣の住宅へも配慮して、この灯の儀へと、受け継がれてきました。ここにともる炎は、雄名録同様、先輩から受け継がれてきた伝統の灯りです。
   この不規則にゆらぐろうそくの炎を見ていると、心が安らぎませんか。今,教室でリモートで見てくれている1年生の皆さんも,少し雰囲気は違いますが,LEDで揺らぐ雰囲気のあるキャンドルを探してきたので,教室の前に置いてくれていることと思います。このユラユラと揺れる炎は「エフ分の1 ゆらぎ」と言って、これは小川のせせらぎや人の心拍の間隔、木漏れ日などと同様にパワーが周波数fに反比例するゆらぎのことで、リラクゼーション効果をもたらします。この灯を見つめていると、73年に及ぶ附属中学校の歴史や伝統を感じませんか。
   3年生の皆さんは、私たちに立派な伝統の1ページを加えてくれました。特にこの1年は,誰も経験したことのない,コロナ禍の中,学校生活がいろいろと制約され,たくさん我慢をしてもらいました。誰に責任があるわけではないとは言え,本当に皆さんにいろいろとつらい思いをさせてしまったことには申し訳ない気持ちでいっぱいです。でもこの困難を耐えた皆さんだからこそ,この経験を今後の人生に生かして欲しいと思います。これからの人生、決して楽な事ばかりではないと思いますが、苦しい時、つらい時、真夏に授業を受けたり,静かに声を出さずにお弁当を食べたりして大変だった学校生活にも常に仲間の存在が皆さんを支えた,附中で過ごした日々を思い出しながら、目標を見失うことなく頑張ってください。附属中学校という母校がいつの日も皆さんを応援しています。
   本当に辛抱強く頑張ってくれた3年生の皆さんが、作ってくれた素晴らし伝統を、これから,2年生,1年生が引き継ぎ、附属中学校をさらに発展させてくれるものと思います。3年生の皆さんは,これから附属中学校の卒業生であることを誇りに、自分らしくしっかりと生き抜いてください。皆さんのご活躍を心から祈っています。本当に皆さんは、素晴らしい附中生でした。
   その附中生と呼ばれるものあと1日となりました。
   本当によく頑ってくれました。    ありがとう。

 


      第35回鳴門教育大学附属中学校卒業証書授与式 「学校長式辞」

    やわらかい春の日差しを受け,中庭の桜の木の芽もふくらみ始めた今日の良き日,鳴門教育大学附属中学校を卒業される130名の皆さん,ご卒業誠におめでとうございます。
   第35回の卒業証書授与式は,昨年同様,様々な制約のもとでの開催となりましたが,鳴門教育大学 美馬理事,副学長様,本校保護者会宮崎会長様をお迎えし無事開催できますことに,心よりお礼申し上げます。今日は,多くの在校生や御来賓の方々が参加できなかったり,卒業生の皆さんの心のこもった歌声もその全てを聴くことはかないませんが,卒業生のご卒業をお祝いする気持ちや,皆さんの将来へエールを送る気持ちに,開催規模の大小は関係ありません。
   昨年と違うのは,ほとんどの在校生はこの会場に入場することはできませんでしたが,今,皆さんの晴れ姿をそれぞれの教室で,しっかりとモニターテレビを通して参観し,皆さんの門出を祝っていることです。
   思い起こせば,昨年の3月から約3ヶ月もの間,誰も経験したことのない長期の休業措置となり,長い間この附属中学校から生徒の皆さんの声が聞こえなくなりました。土日を始め長期の休み中でも,部活動に来ている生徒の声が校内のあちこちから聞こえてくるのに,この期間は本当に私たちは寂しい思いをしました。しかし,それ以上に寂しかったのは,友と会うこともできず,日常的な学校生活が送れなかった皆さん方だと思います。そして,学校再開後も様々な行事が中止や延期,縮小となりました。誰の責任でもないとは言え,頑張ってきた部活動の最後の大会や,コンクール等が中止になってしまったことに対して本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。そんな中,何もかもを中止にしてしまうのではなく,知恵を出し合い,可能な範囲で実施した文化祭や体育祭は,開催までの苦労があった分,例年以上の深い思い出として皆さんの記憶に残ってくれていれば幸いです。そのような中で,今まで実施したことのない行事である,ヘレンケラーの観劇を実施したことなどは,3年前の入学式の式辞で皆さんにお伝えした「あきらめない気持ち」をみんなで具現化した成果だと思います。
   保護者の皆様におかれましては、これまでの3年間のご労苦に敬意を表しますとともに、高いところからではございますが、お子様の ご卒業を心よりお慶び申し上げます。先ほどの「思い出のアルバム」をご覧になって,3年前の入学当時を思い起こし、立派に成長したお子様の姿に、喜びも格別なものがあったのではないでしょうか。私自身,3年前に附属中学校へ再び戻ってくることができ,卒業生と共に歩んだ3年間だっただけに,その成長ぶりに感動しております。
   さて,卒業生の皆さん,皆さんが生きていく未来には,このコロナ禍のように「予測不能」なことがいろいろと起こる可能性があります。しかし,悲観する必要はありません。皆さんには無限の可能性があり,科学技術も今まで以上の速度で発展していくことでしょう。今,この瞬間も,地球から2億3千万Km離れた火星で,先月着陸した探査車両が活動しています。その探査車両は「パーシビアランス」という名前で,「忍耐力」という意味だそうです。どんなアクシデントがあっても,耐えて耐えて耐え抜いて人類の輝かしい未来のために,頑張り抜いてくれるようにとの,思いを託したそうです。
   あの真夏の,本来なら夏休み中であったはずの日々,毎日学校生活を頑張り通した皆さんです。少々のことには耐えて,そして本校で培った,人間学校の精神を忘れないで頑張って欲しいと思います。
   終わりになりましたが,保護者の皆様には,本日まで本校の教育活動に,温かい御支援と御協力を賜りましたことに,心よりお礼を申し上げます。今後とも本校の良きサポーターとして,附属中学校を見守っていただければ幸いです。
   また,美馬理事様,宮崎保護者会会長様には,これまで本校教育にお寄せいただきました御理解と御支援に厚くお礼申しあげます。ありがとうございました。
   卒業生の皆さん,いよいよ巣立ちの時が近づいてきました。今一度,ステージ右側に掲げられた,2か月前に揮毫した雄名録の掛け軸を見てください。昭和26年から一度も欠かすことなく続いている新年揮毫式を,心配されましたが今年も無事開催することができ,71幅めの雄名録の掛け軸ができあがりました。ここに書いた皆さんの名前は,いつまでも本校に残り,後輩に受け継がれ,毎年この体育館に展示してくれます。
   今年は見送りましたが,この揮毫式は公開行事としています。将来,皆さんが悩んだり壁にあたってしまうことがあれば,遠慮なく揮毫式に来て,この雄名録を見つめてください。そこには,確かに自分が書いた氏名とともに,この大変だった令和2年度を共に過ごした仲間と,恩師や後輩の名前があります。 きっと皆さんの背中をそっと押してくれる勇気を与えてくれることでしょう。
   これから,皆さんがどんな辛いことや苦しいことがあっても,自分の欲に打ち勝ち,礼儀や規範を重んじれば,必ず,皆さんのよき理解者ができるはずです。『克己復礼』 この思いを大切に,邁進していってください。
   みんなでもうしばらく我慢し,辛抱して,今の状況を無事乗り越えられたことを誇れる日が来ることを信じ,卒業生130名の限りない前途を祝福して,式辞といたします。

令和3年3月12日
                                                                         鳴門教育大学附属中学校 校長 大 泉 計


   3年生が卒業の歌に選んだ「3月9日」。私にしては,極最近の曲でも,2004年リリースということは,中学3年生は,まだ生まれていないんですよね。
♪ 新たな世界の入り口に立ち 気づいたことは一人じゃないってこと ♪
https://www.youtube.com/watch?v=kQsr9-L-O2g

   式辞の中でも申しましたが,本当につらい思いをさせた3年生,この経験をバネにしっかりと自分の未来を切り開いていってもらいたいです。 卒業おめでとう。



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